箏組歌およびこれに付随する段物などの伝承の差によって生じた一流派。
近代箏曲の祖と称される八橋検校門下の北島検校城春は、手法を改め独立の意志があったのに、生田検校いく一だけに伝えて早く没したため、その志を生田検校が受け継いだ。
したがって、後世、北島検校以来の伝承を生田流と称するようになったと、『新八橋流伝授書』などに記されている。
その後、大坂においては、菊永検校太一が伝承を整理し、大坂生田流菊筋に伝えるに至った。
一方、江戸には三橋検校弥之一が下って、その門下の菊崎検校加幸一以下、江戸の惣録の上にあり統轄する官屋敷を中心に伝承を広めた。
この江戸の生田流は、文化年間に山田検校が現れ山田流箏曲を創始するまでは、むしろ江戸箏曲の主流であり、その後も伝承は行われた。